沈黙は追悼であり、ブログを止めるということではありません

LorelleSilence is a Memoriam, Not a Reason to Stop Blogging(沈黙は追悼であり、ブログを止めるということではありません)を訳しました。ライセンスは原文と同じく、CC – 表示 – 非営利 – 継承 2.0です。

マサチューセッツ工科大学銃乱射事件の犠牲者を悼んで4月30日をブロゴスフィア(ブログコミュニティ)の沈黙の日としましょうという呼びかけがあり、先日Lorelleが自分のブログで、「悼む対象をもっと広げてはどうでしょう?」と書いて紹介したところ、「沈黙などすべきではなく、むしろより活発にブログに意見を書き込むべきでは?」というコメントが多く寄せられました。以下の文章はそうしたコメントに対する意見を、Lorelle自身の体験を交えて語ったものです。思わずぐっときてしまったのでつい訳してしまいました。私も4月30日はブログを休みます。

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Silence is a Memoriam, Not a Reason to Stop Blogging

by Lorelle

One Day of Blog Silence Event( 一日ブログ沈黙イベント)私のお知らせに関して、自分の体験をお話したいと思います。

イスラエルのYom HaShoah (ホロコースト追悼記念日)の何日か前、その記念日に空襲警報が鳴るが心配することはないと警告されました。何をしていてもそれをやめ、2分間動かないで静かにするように、とも。その日はイスラエルのすべてが停止すると、私の友達は語りました。

私は笑ってしまいました。イスラエル人を身動きさせないで黙らせるなんて、まるで線路にコインを置いて高速の列車を止めようとするようなものです。想像すらできませんでした。ここは騒々しい場所で、ただ聞いてもらうためにいつも大声で怒鳴っている多くの人々で満ちています。活力があふれかえっています。それは私が見たいと思っていたことでしたが、見られるとはまったく考えていませんでした。

その当日、私は用事があってテルアビブのダウンタウンの路上にいました。すっかり忘れていたのでサイレンが鳴ったときは驚きました。何秒か歩き続け、私の回りで誰も動いていないことに気がつきました。

無。人々が身動きせず静かに路上に立っています。すべての車が止まり、運転手や乗客は外に出て自分たちの乗り物の横に立っています。私は凍ったように動きを止めました。

耳をすませました。

音がしません。怒鳴り声もありません。警笛の音もしません。エンジン音もしません。やかましいラジオの音も聞こえてきません。静寂。泣いている赤ん坊もいません。叱っている母親もいません。商品を売りつけようと怒鳴っている店員もいません。静寂。飛行機も飛んでいません。スクーターも走っていません。犬も吼えていません。どこにも、何の音もしません。

うなるサイレンは除いて。

何も動いていません。走り回る子供もいません。うろつきまわる犬もいません。身振り手振りをしている人もいません。無。沈黙と静寂。

私の隣には老人が立っていました。その顔は疲れた皺におおわれ、頭(こうべ)を垂れ、涙が顔を流れ落ちてボロボロの白いTシャツに染みをつけていました。私の前では、若い女の子が片手に携帯電話を持ち、もう一方の手にはタバコをはさみ、ヘッドフォンを耳から外し、顔を上げ、静かに涙を流していました。

そしてサイレンはうなり続けます。

国中で同じことが起こっているのだろうかと、私は思いました。この瞬間、600万人以上の人々がみな静かに立ち、自分たちのコミュニティで空襲警報に耳をすませているのだろうかと。エルサレムのダウンタウンで、ハイファで、ベルシェーベで、アコで。小さな村々で、アラブ人が、ユダヤ人が、両方の血を引いた人が、どちらでもない人が。国境沿いの入植地で。彼らもみな、じっと静かに立っているのでしょうか?

あとで夫から、その時自分は車を運転していて、フリーウェイに車を止めた男の人に危うくぶつけるところだったと聞きました。サイレンが鳴り始める少し前、車からみんなが降りるのを見て、カーラジオのすべての局から空襲警報が流れるのを聞いたそうです。そのときは、これは空襲警報のテストをする良い方法だと思ったそうです。夫は車を降り、他の何百ものドライバーと車に加わって、イスラエルで最も混雑するハイウェイの路上でじっと静かに立っていました。

このようなことは、思うに人が多すぎて複数の時間帯のある広大なアメリカやロシアでは起こりえないでしょう。どうやったら2分もの間、様々な場所にいるすべての人を停止させられるのでしょうか?アメリカでは起こりえないと、私は確信していました。

ホロコーストで亡くなった人々、そして生き延びた人々に対する何という敬意の払い方でしょう。そして私は気づいたのです、同じこと、すなわちホロコーストのことを思っている600万人もの人々と一緒に、私も立っているのだと。

私の目に涙があふれ、まわりの静かな光景がかすみました。600万人以上の人々がみな、同じ思いを同じときに抱いたのです。決して忘れない、と。何が起こったのかを思い起こします。亡くなった方を思い起こします。失った物を思い起こします。あの痛みを思い起こします。あの苦しみを思い起こします。同じことが2度と起きないということを、思い起こします。

そしてサイレンの音が止んでいき、私の耳の中ではかすかに鳴ってはいたものの、車の音、警笛、鳴り響くラジオ、泣く子供、吠える犬、怒鳴る店員、そして携帯電話の呼び出し音に、すぐに取って代わられました。いつもの騒々しい生活が戻ってくるなか、私はじっとしていま経験したあの時に浸りつづけ、活発なテルアビブが私のまわりに押し寄せてきました。あわただしさに満ちた生活が、また戻ってきました。

それから5年もの間、年に一度の沈黙の2分間に、私は深い理解と個人的な成長を経験しました。経歴や出身や宗教に関係なく、この国のすべての人を、私は感じました。ともに、2分間、私たちは同じ思いを共有したのです。

私は、戦争、害悪、大量虐殺、テロリズム、神やお金や土地や権力のために互いに殺しあう人々に対する自分の気持ちと意見を確かめました。思い起こすことで苦悩し、思い起こすことにより、他の人が忘れないように、私たちが繰り返さないようにするのだと気づき、安らぎを得ました

残念ながら、無視されている暴力と殺人が、認識されている殺人を遥かにしのぐ世界に私たちは生きています。暴力をコミュニケーションの一種として、相手にメッセージを伝える方法の一種としてみなすような世界に、私たちは生きています。死者には何も聞こえないのに。そしてそもそも殺人者は何も聞こうとはしません。

私は暴力に鈍感な世界に住んでいます。私たちは暴力的な映画を称賛し、暴力的なコンピューターゲームに夢中です。私たちはつい最近になって、社会的には、妻や子供に暴力を振るうのはいけないことだと考えるようになりました。これは何千年ものあいだ容認されていた考えで、今も多くの国々で容認されています。

ニュースで報道される兵士やイラク人の死を、最後に嘆き悲しんだのはいつですか?バージニア工科大学銃乱射事件の犠牲者を、あなたは嘆き悲しみますか?宗教や政治の内紛が原因で、インドで毎日のように殺されている人たちについては?いまだに争いが絶えず、もはやアメリカと麻薬王のキャンディ工場からも部分的に見放されているアフガニスタンの人たちについては?生活の一部として、毎日のように起こる誘拐や殺人とともに暮らす中央アメリカの人たちについては?今もスーダンやその周辺国で進行中の大量虐殺については?少しでも涙を流しましたか?いいえ、それは”向う側”で起こっていることですから。そして私たちは鈍感で目を背けたままでいるのです。

沈黙は追悼であり、ブログを止めるということではありません

あなたはどうですか?ブログの一日沈黙日を支持しますか?それとも、世界中の迫害と暴力について大声で意見を述べる場として、この日を利用しますか?

ウェブを一日静まり返らせてはどうでしょう? ブロゴスフィアのほかのみなさんと思いが一つになった日を共有したり考えたりする時間を持つために。私と同じような力強い体験を得られるかもしれません。マーティン・ルーサー・キングによって率いられた沈黙の抗議者たちのパワーと、彼らが動くことと話すことを拒絶したことによって刑務所に入れられ、世界を変えたことを、私は思い出します。

沈黙の日は追悼のためです。ブログを止めるのではありません。話すことを止めるのではありません。どちらかといえば、真剣な話やブログの投稿は、このイベントの前後に行なうほうが効果的でしょう。

この問題に関して自分のために討論するのなら、同様にその討論を止めて、世界を変えるために自分のブログで何をしているのかを真剣に考えてみてください。もしそのブログがある程度の冨と名声をあなたにもたらしているのなら、形はどうあれ、あなたは世界をよりよい場所にするためにそのブログを利用していますか?

もし沈黙があなたにとっての声明なら、あなたの参加するこの『とき』がなぜそんなに重要なのかをみんなに知ってもらうために、この沈黙の前と後で何をしますか?

もし話すことがあなたにとっての声明なら、それはどのような声明になりますか?世界中のすべてのブログのそれぞれの投稿で、みんなが世界平和のための方策を手に自分たちの演台に立つ日があってもいいと思います。たぶん誰かが提案するでしょう。

忘れられた死者について怒鳴り散らし、自ら喪に服するアメリカを厳しく非難しますか?それとも、自国市民の保護を怠り、他国の人々を保護する政府を激しくしかりつけますか?あるいは、苦境にある多くの人々を無視しているマスコミを非難しますか?

不平は注目を集めるかもしれませんが、何らかの解決策をだしてみてはどうでしょう?泣き言をいう代わりに打開案をいくつか示したらどうでしょう?世の中を良くするためにあなたが行なっていることを世界と分かち合ってみてはどうでしょう?

思い起こすことはいいことだと思います。しかし、私には何かをするための準備もできています。あなたはどうですか?

ホロコーストを生き残った Alexander Kimel が1941年3月に“I Can Not Forget” を書きました:

…このひっくり返った世界を記憶していたいかって?
亡くなった者が即死の恩恵に浴したこの世界を。
短く悲惨な人生を余儀なくされ、
名も無き場所への長く曲がりくねった旅で、
生ける魂が変換される、灰とガスに。
いや。私は記憶しなければいけない。そして決して忘れない。

昨日(4/16)、イスラエルでは600万人以上の人々が2分間じっと静かに立ち、Yom HaShoahに祈りをささげました。2007年4月30日、私たちの中で沈黙の力(ちから)を理解する者は、他人の手により無用な死を遂げたすべての人々に祈りをささげます。

まったく当惑することでしょう。

他人が殺されているときにじっと静かに立っているべきではありません。2度と同じことが起こらないよう思い起こすために、じっと静かに立つのです。

メモ: Andy Beard がOneDayBlogSilence.comを運営している教師のSteli Eftiご存知とのことでした。Steli Eftiにとってのこの追悼の理由は一読の価値があります。

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以上です。誤字脱字誤訳がありましたら、教えてください。